第4回 「切れ」と私

うーん、難しい。月に一回ぐらいは書きたいけれど、結局2ヶ月ぐるぐる。
問題は「切れ」。別に塾生が来ないのでいじけていたわけではありません。応援 メールもあったので、フンギッて書いてみます。

私は「切れ」というものがとても重要だと思っていて、魅力を感じているのです が、「切れ」が重要だということを声高に言うのが嫌いです。困った性格です。 これこそ自分で考えるもんだヨ。

「切れ」と「切れ字」はとても関係が深いというか、ほとんどセットで考えられ ているものですが、本当は「切れ」のために「切れ字」があるのでは無い。と、 私は考えています。
「切れ字」つまり「や・かな・けり」これらは使えば俳句っぽくなるという代物 です。確か中学の国語では「詠嘆」とか「強意」みたいな言い方で「切れ字」を 説明してたっけ。そんな便利な言葉ってありか?
ここで、私が深く納得した切れ字に関係する文章を引用します。

「俳句は五・七・五字音中心の定型、つまり韻文である。散文ではない。言葉の 塊を組み立ててゆくのだから、この間に説明の言葉は不必要である。邪魔である 。組み立て、ぶつけることによって、表現力を与えるのである。
散文の場合はてにをはを正確に遣って、きちんと説明する。けれども最短定型詩 の場合は、説明の必要はない。言葉の塊をぶつけるのだ。塊にはリズム感があり 、ぶつけると、そこに響き(韻)がでる。メロディーが感じられる。音楽性があ るのだ。この音楽性が表現力を持っている。だから俳句は、日本語の最も短い韻 文であるという認識、これが重要になってくる。」

金子兜太氏の言葉ですが、この前提で言うならば「切れ字」は音楽性を整えるた めのものです。「てにをは」とは違うものです。昔は普通にあったのだが、現代 では使われない、あまり意識されない特殊な言葉です。
つまり、意外と簡単で、「あ・それ」とか「ほら」とか「よいしょ」みたいな合 いの手の言葉とほとんど一緒なのです。
俳句の中では結果的にまるで「切れ」はここだぞ。と、威張って置かれている「 切れ字」ですが、どうやら昔から基本的には呼吸、息遣いのためにあるものなの ではないかと、私はいつの間にか確信しております。
では、「切れ」とは何でしょうか?

ここから先の話は思いっきりアレンジしているので、疑いながら読んでいただい て結構なのですが、私は「切れ」は「覗き」だと思っています。

切れとは言葉通り、何かを切っているのですが、切るという極めて独善的な行為 にはいつも自分が反映されます。右と左は自分から見て空間を切ったものである し、昨日や明日も自分から見て時間を切ったものです。 また、変な話、人間とは「人の間」です。人間は一人ではなく皆でもなく、最低 二人ぐらいはいるところの間の誰かです。(まるで俳句の話では無いみたいです が)。

つまり、「切れ」とは間です。そして、そこから「覗く」こと。何と何の間から 何が見えますか?という、俳句においては問いかけのようなものです。

「古池」と「蛙の飛びこむ水の音」の間に、
「柿を食う」と「鐘が鳴る法隆寺」の間に、
何か主体があったんだろうな、自分が。と、思うわけです。
そんなことを私は「覗く」なんてちょっといやらしい言葉で説明しますが、大真 面目です。

そして、もっと言うのですが、「覗く」は「スリル」です。体をかけて感覚を前 に出すことです。
臭いものを食べてみることや、目をつぶって歩いてみることです。そのぐらい「 お前なんでそんなことするの」ってことをしてしまった時のほとんど説明のつか ない感覚的何か、は「切れ」でしか表現できない、主体の正体とも言える何かな のではないでしょうか。

「切れ」は重要なテーマなので、今後もいつまでも考えるのですが、俳句はその 短さとその中に切れを持ったことによって、世界にも類を見ないストイックな言 語表現であるということは間違いないと思います。
そして、そのストイックさは「切れ」のなかにある、「省略」という考え方にそ の特徴があります。では、「省略」の説明の前に「切れ」を簡単に定義します。
俳句は使える言葉数が少ないから、一番言いたいことを言うと長くなるから「省 略」するけど、これとこれを言えば言わなくてもわかってくれるよね、と言った ときに一番言いたいことを「覗く」ことができる共感スポットのことです。

一番言いたいことがあると、切る。一番のために言葉数を残して置く。言葉の達 人でもないかぎり、切らずに伝えられる程度のことは月並みで、内容に深みが無 いのがほとんど。だから「一番」を切る。「省略」する。この「省略」ってやつ が凄いね。発想がサヨナラホームランしています。

それで、次回のテーマは「省略」。サヨナラホームランです。