第1回 俳句ってなんだろう?

さて、満を持しての新連載。ぐるぐる俳句塾塾長の道草です。
基本的には、塾長が普段俳句について考えているぐるぐるしたことを、なるべく そのまま排出いたします。
ただ、実生活がぐるぐるしている蒙昧諸君ですから、あんまりぐるぐるされたら 困る方もいるかもしれません。
しかし、大方のところは塾長が皆さんに代わってぐるぐるしますのでご安心下さ い。
また、皆さんは自動的に生徒になったわけでも弟子になったわけでもありません 。ただ、ときどきこのコーナーに登場していただきます。
隔週か毎週かは未定。分量や内容を見ておいおい決めていきます。
さて今日のぐるぐる。

俳句はとても面白いものです。
しかし、まだ誰もその面白さを上手に説明した人はいません。

別に説明することを目指すわけでも、
説明できたからといって偉いわけでも無いのですが、
だから俳句はまだまだ面白いのです。

松尾芭蕉と正岡子規はそんな俳句の歴史のなかでは、 まだまだ新しいヒーローです。
まるで昨日のことのように今でも彼らの噂はよく耳にします。

俳句は若い。
嘘みたいですがこれは真実です。


私は俳句に対しての感覚として、「なんか誘われて句会に行ってみた。初心者な のに意外とできたし面白かった。だけど、ハマろうとすればハマれる気もするが 、ハマるほどのものではない気もする。友達が行くなら行っても良い」というの が俳句の入り口の正常な感覚であると思います。

俳句は誰でも作れる。
俳句には答えがない。

この自由な感じが俳句の味噌です。
そして、これが最初のぐるぐるです。

俳句は「5・7・5」に「季語」を入れることで誰でも作れます。
だけど、他にも「切れ字」とか「省略」とか「破調」とか「自由律」とか「無季 」とか「季重なりを避ける」とか「切れ字を二つ入れない」とか「説明しすぎな い」とか「季語が動く」とか「つきすぎ」とか「挨拶」とか「滑稽」とか「詩と の違い」とか「川柳との違い」とか、考え出したらキリがないテーマがたくさん あって、句会の中であーだこーだ言い合っているうちは楽しいですが、結局自分 の俳句が良いのか悪いのかははっきりしません。何を信じたらいいのかわかりに くいのです。

何を信じたらいいのかわからなくても俳句はできるのです。
しかし、こんなに頼りにならないものを作って一体何になるのでしょうか。

特に最初は「5・7・5」と「季語」ぐらいしか頼りがないから、字余り・字足 らずはだらしがないようにも見えるし、「破調」とか「自由律」とか言われると 、「ズルイ」とか「カッコイイ」とか思う。また、嘘みたいに古めかしい季語を 使って人に歳時記を調べさせたりするのが好きなサディスティックな集まりにも 見える。

幅があると言えばあるし、しかし、騙されそうな理論のようなものもけっこうた くさんあって、誰か本当のことを教えてくれ、と思う。
だから、結社のような、とある先生を中心とした俳句の集まりに所属する人もい る。要するに俳句とは、頼りない、そこそこ面白いもののようです。

だけど、基本は、
なんだか面倒くさいことがたくさんあって、それにはいろいろ理由があって、で もそれにはいちいち抵抗したくて、自分の方が正しいような気がして、でも、な んかいつの間にかヒョイと飛び越せそう。
という感覚が俳句の若くて面白いとこなんじゃないかなあ。と、私は思っていま す。

ただ、飛べると思っているんだけど、なかなか飛べない。それでムキになるのも なかなか面白い。
自由なはずだったあなたの俳句はいつの間にか自分の俳句にからみつかれて、い つしか俳句の中に埋れてしまうのです。だから基本は知っておく程度には大事な のでしょう。
しかし、スターはなかなか誕生しません、いつまでたっても芭蕉が一番偉いかの ように扱われているのはそのためでしょう。
さて、塾長の仕事はそこらへんにあるようです。

いやあ、この塾は大丈夫かな。
なんかぽろぽろこぼしているような気がするので、次回からは観念を抑え目に、 トピックスでやっていこう。

今日のこれって名句でしょうか?

目には青葉山ほとゝぎす初がつほ   山口素堂

第2回予告 「句会」