第二部 実践編 @

A ではでは第二部よろしくお願いします。第一部のときに質問メールを何通か もらったので、それに関してもいずれ機会があれば答えていきます。

B それでは2008年8月24日の句会から。この日は句会の後に神宮球場にナイター を観に行く予定でしたが、雨で中止に。会場は荻窪で、「ナイター」と「朝寒」 の席題もありました。

天仰ぐ蝉あらば心恋しけり  麟

A 夏の終り、仰向けに転がつてゐる蝉。私の心は恋しくてどうしようもない。

B この日が句会初参加の麟(りん)さんの句です。私は上のような和歌的な抒情 がある句だと思いました。五・八・五と、「中八」になっていることで、「心」 をより響かせているので、キュンとくる感じが際立っていると思います。

A 「恋しけり」は詩歌でもあまり見ない言い回しですが、「けり」に接続する場 合、文法的には「恋しい」(形容詞)ではなく、「恋する・恋す」(サ変動詞)とい うことになっています。なので、「恋しい」+「けり」と思っていたら間違いなの で注意しましょう。

B とはいっても、形容詞でも動詞でも恋は恋なので伝わりますね。

白球にメガホンかざすナイターの夏  麟
雲にのり身体あずける朝寒の夢

A 同じく麟さんの句。この二句は両方とも五・七・七になっています。単純に 音数の問題では無いとも思いますが、状況はわかるのですが、句の中心が掴みに くいような印象があります。

B 例えば下のように、

白球にメガホンかざすナイターの夏(と同時に彼は老けゆく)
雲にのり身体あずける朝寒の夢(はそのまま午後のランチへ)

という風に( )以下を補って短歌にしてしまえば、どうでしょうか。作者の意図 は全く違うものだと思いますし、補った私の勝手が過ぎますが、伝わりは良くな るような気がします。

A ここで五・七・七というリズムが「はみ出た感」を残すのは、やはり短歌に 近いリズムだということもありますが、後ろに言いたいことを残してしまった感 じがするからのようです。

B 五・七・五というのは不思議なリズムで、そのままに作れば大体無難に俳句 っぽくなります。ただ、はみ出したり足らなかったりすると、即俳句っぽくなく なるかというと、そうではなく、俳句っぽいものもあります。そこには何か俳句 を俳句足らしむ不思議な問題があって、私はいつもそのことを考えています。

A 初参加の麟さんの句をよく見てみると、この日出句した五句のうち四句が五 ・七・五ではありませんでした。普通最初は、はみ出す方が難しいと私は思うの です。そこにはなんかあるんだろうな。と私は勝手に思いました。これははみ出 し系のニューウェーブかもしれないと。

蝉鳴けリ今年は何を成したかと  子亀
草いきれありし日の故事駆けめぐり

A 同じく句会初参加の小亀さんの俳句です。どこか時間を感じさせる作風です ね。振り返って偲ぶ姿勢が両句にあります。

B 「蝉鳴けり」の句は句意が明瞭でしかも深みがあるので、人によく伝わるので はないかと思います。ただ、蝉→短命という発想が旧知のものであるため、その 延長戦上の類想で新鮮さが無いと読まれる場合もあるのかな。「付き過ぎ」って いう批判の仕方がそれです。私はそれよりも、上五を、「蝉鳴くや」とか「ナン トカ蝉」とかにしないで、「蝉鳴けり」と言い切って切ったところがセンスだな あ、と思って感心しました。

A この言い回しによるニュアンスの違いは重要です。もし上五が「蝉鳴くや」 だったら、なんかウンチクっぽくなる気がするのです。

B 解釈にはあまり関係ありませんが、文法的にはここでの切れ字は「けり」で はなくて「り」です。「鳴く」に「けり」を接続する場合は「鳴きけり」になる ので、ここでは「鳴く」の已然形+「り」で「鳴けり」です。切れ字は「や・か な・けり」が一般的ですが、十三個あるとか十八個あるとか四十八音全て切れ字 だとかいう説があります。どちらにしても曖昧なので考える必要は無いかもしれ ないけど、「や・かな・けり」以外の切れ字の作句例としてもこの句は記憶に残 るなあ、と思いました。

A 次に「草いきれ」の句に関してですが、「蝉鳴けり」の句が一般的なことを 詠んでいるのに対して、「草いきれ」の句は個人的なことを詠んでいる感じがし ます。これは多分「ありし日の故事」の中身がオープンではなくて、読者の想像 に任されているからだろうなあ。

B 私は「草いきれ」が過去を呼び覚ますという状況設定を見事だと思いました 。空気や匂いのような触覚嗅覚に関わるものから過去の記憶が浮かび上がってく るということは、リアルなことです。しかし、「ありし日の故事」のイメージは 任されすぎていてやや消化不良でした。たとえばここに入る故事が「李下に冠を 整さず」だとしたら、なんかミステリアスで滑稽で面白いなあと思ったけど、そ れでは私が勝手に想像し過ぎているという自制が働きます。そういう想像し過ぎ を誘発することは、個人的には楽しいけど、俳句としては若干ルーズなのかなあ 、という感想もあります。


A 以上は句会初登場の麟さんと小亀さんの俳句に関してでしたが、どうでしょ うか。上に書かれていることは俳句を作る上ではほとんど全く役に立ちません。 俳句は作者が勝手に作るものです。しかし、私なんかは余計なことをそれほど山 のように考えます。むしろ余計なことしか考えません。こういう人もいてあなた の俳句を読んでいるのです。これはちょっと面白いことのはずです。また、自分 の詠んだ俳句は誰がなんと言おうと、その人の分身のようなものです。上手い下 手や好き嫌いは後からどんどん出て来るでしょうが、分身を作るってのは多分そ れ自体かなり楽しいことです。なので今後もよろしく〜。


街灯にむらがるは夜かコウモリか  いちじく

A この句は句会で点が入らなかったけど、見落としていたなあ、と思いました 。視覚的な把握を詩としての俳句に上手く落とし込んでいると思います。 「街灯の周りは白んでいます。そこにむらがるコウモリは影です。そこには夜の 境界線が迫っているように見える」ということを言っているんだろうと思いまし た。カッコイイんじゃないかな、こういう把握の仕方は。句の背後にきちんと画 があるのがいい。こういう方向性の俳句の作り方には伝統と未来があるような気 がします。

月に手をそえて歩めば踊の輪 翠柑

B 踊り(秋の季語で盆踊り)=月に手をそえるもの、とした把握は巨匠の域だと 思います。私は心底びっくりしました。大きくて抒情的で的確な把握です。ただ 句のなかで書かれていること通りに読むと、踊る前から月に手をそえていること になる。実際作者もその意図で作ったということですが、そうすると一句の中で 、あるストーリーの流れが必要になる。これは俳句にとっては若干損だと思いま す。呑み込むのに時間がかかるから。「月に手をそえることで踊りがはじまる」 という主題にシンプルに絞って、〈月に手をそえてはじまる踊かな〉と、それし か言わないぐらいの方が、よりクールに俳句かもしれません。

ナイターの後に風呂釜洗う父  呼雲

A この句はこの日の最多得票句です。お題の「ナイター」を使って詠んだ句で 点数の入った句はこの句だけでした。この句が支持されたのは何故?

B ちょっと変な話をはじめるならば、この句をリアルに共感できる世代という のは、多分我々ぐらいで最後なんじゃないかな。もともとナイターが季語になっ た当時は茶の間で観るテレビ放送のことではなく、単純に夏の野外のナイトゲー ムを指してした。それが枝豆とビールとナイターのサラリーマンの晩酌セットに なって茶の間に進出したのは我々の父親世代からだ。偉い父親たちだったなあ、 と今にして思うのだ。世論ではダサい親父というほうが多いだろうけど。今もし 同じ晩酌セットをやろうと思ったらかなり趣味的生活だと思うのだが。

A ナイター→茶の間→家族という連想は目新しいものでは無い。しかし、「風 呂釜を洗う」ところまでを見届ける視線はここにしかない。だからいいんだろう なこの句は。句会のときに、下五の最後の「父」は言わないほうがいいんじゃな いか、って私は言ったのですが、それは川柳っぽいからなんだけど。そこらへん どうだろう。川柳でも構わん。と思うよ。サラリーマンをバカにするな。と頭の 固い俳人には言ってやろう。ってこの場合私か。

ピポパポピー宇宙と交信さるすべり  くらら

B こんな重大な国家機密をこともなげに看破してしまいましたね。百日も咲い ているのはそういうことだったのですね。困ったなあ、もう私の平穏な日々は帰 ってこない。ピポパポピー。

A 人の見方を変えてしまうぐらい強烈な見立て。今後百日紅を見るたびに思い 出すだろうなあ。これはちょっと凄いよ。


B てな感じで第二部はやっていくつもりです。句会の度に書いていくつもりな ので、少なくとも年間十二回、五十年やれば六百回になる予定です。

A とは言っても現在試行錯誤中。ご意見等あればよろしくお願いします。